1960年、ついに製品として船外機が完成した。月産200台を想定して「P-7」として発売し、ここにヤマハ船外機の歴史が始まる。
しかし、「P-7」は決して優れた船外機とはいえなかった。特に音と振動がはげしく、「実際に使用した漁師からは“音がよく出る。さすが楽器屋が創った船外機”とからかわれたこともあった」と、当時の技術者は苦笑をまじえて振り返る。
ヤマハ製の船外機が本格的に市場で受け入れられたのは、「P-7」を発売した翌年(1961年)の11月に発売した、空冷63cc単気筒3馬力の「P-3」である。動力化が浸透し始めた業務市場では3馬力が最も多く使われており、そのニーズに合わせて開発した。
エンジンの耐久性と耐蝕性を主眼に開発された「P-3」は摩耗性に優れ、シリコンを混入させた独自開発のアルミ合金を使用。国産の船外機としては初めてダイキャストを採用し、さらに軽量・コンパクト化を推し進めたほか、始動性や操作性にもこだわった。
まったくの手探りによる開発だった「P-7」に比べ、「P-3」は市場での評価をダイレクトに反映させ改良させた機種で「市場密着型」の第一歩といっても良い。発売後もヤマハの技術者たちはクレームがあれば自ら真っ先に市場に駆けつけて販売店の声を聞き、またユーザーの声にも真摯に耳を傾け、その後の製品の改良につなげていった。
当初は他社モデルが多かった日本の漁村にも、次第に「P-3」が導入されると、その使いやすさからたちまち評判となり、千葉県外房のある漁村では、わずか1年でヤマハの船外機が港を埋め尽くしたと言われている。当時、漁師を始め船外機ユーザーからは、女性スタッフがデザインした黄色のカウリングを帽子に見立てて、「ヤマハの黄帽子」と呼ばれていた。
「マリン事業60年の歩み」より抜粋
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